歴史特集: ダンケルクの奇跡

歴史特集
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艦長の皆さん!

今回の歴史特集では、World of Warships の根幹とも深く関わっている、とある歴史的な軍事作戦にフォーカスを置きたいと思います。

その作戦とはーー「ダイナモ作戦」。
第二次世界大戦、ダンケルクの戦いにおいて敢行されたこの作戦……ドイツ軍の電撃戦によって友軍と分断され孤立無援となったイギリス/フランス連合兵士たちの、必死の撤退戦でした。

Action Stations!


ダンケルク大撤退

ドイツ軍のフランス侵攻は破竹の勢いでした。あっけにとられた連合軍は、完全に戦意を失ってしまいます。イギリスの大陸派遣軍はドイツ軍が展開した、当時からすると全く新しい戦術スタイルについていくことができず、兵器や装備の戦力差もあってか繰り返し敗北を喫しました。その結果、ドイツ軍がイギリス海峡を目指し進軍している間も軍内に混乱は拡がっていき、1940年5月の終わり頃には戦線が破たんしたのです。

それでもイギリス軍は、故郷に帰る為……と一筋の希望にすがり前へと進み続けました。撤退戦は常軌を逸していたの一言に尽きます。道という道は難民と逃げる兵士に溢れ、乗り捨てられた車輌が至る所に放置されていました。たとえ最後の一人になろうとも戦え!……という命令だったにもかかわらず、最初に逃げ出したのは将校や士官たちだったそうです。この混乱を落ち着かせるためには、撤退そのものを指揮する方向にシフトするしか方法はなない……そう判断した上層部は、命令を「連合軍を無事、戦闘区域から撤退させること」へと変更しました。当初は主に補給部隊の離脱を目的としていたのですが、その思惑はすぐに搔き消され、一般市民を巻き込んだ大規模な撤退作戦へと発展していきました。

海岸へ撤退 1940年 5月

5月20日。
イギリス海軍中将、バートラム・ラムゼイの指揮の下、撤退戦の計画が始まりました。コードネームは「ダイナモ作戦」。ダイナモ・ルーム、つまりドーバー城地下にあった海軍指揮所の発電機室にて、作戦概要が説明されたことから名付けられました。このダイナモ・ルームで、イギリス首相 ウィンストン・チャーチルは世紀の撤退作戦の相談を受け、この部屋で、ラムゼイ海軍中将は作戦を練ったのです。

海軍中将バートラム・ラムゼイ ドーバー城 指揮所にて

ダンケルクの戦いには、いくつかの謎があります。その一つが、ヒトラーがドイツ軍に下した「進軍/攻撃停止命令」です。これにより、イギリス軍はダイナモ作戦での撤退に必要な時間を十分に確保できたのでした。あと数キロというところで、ドイツ軍は進行を止め守備配置につき、包囲陣形を取ったのです。そしてイギリス・フランス連合軍をダンケルク近くの岸に追い詰め、身動き取れなくさせました。想像を絶する数の兵士が、都市および隣接していた浜辺に閉じ込められる結果となりました。
歴史学者の中には、とある仮説を立てる者もいます。ヒトラー総統がかような命令を下したのはイギリスから敵意を過剰に受けない様にするためだと。とはいえ、これが真実かどうかは疑問です。哀れみを受けたのであれば、この後、連合軍兵士が継続的に爆撃を受けたことの説明がつかないからです。

そして一日目。
ダンケルクの港を大規模な空襲が襲いました。圧倒的な数の爆撃が都市を襲い、目を覆いたくなるような数の死傷者が一般市民から出ました(いくつかの情報によると、都市人口の3割が爆撃時にはまだ残っており、何千もの市民が犠牲になったという報告もあります)。都市の用水システムは悉く破壊され、火災の消火など不可能だったと言います。ダンケルクのほとんどが、がれきと化したのです。
一方で浜辺で身動きが取れない兵隊たちも、絶え間ない爆撃と、容赦ない戦闘機の銃撃にその身を晒していました。イギリス空軍は持てる力を振り絞り援護に向かい、一日目だけで 38 機ものドイツ機を撃墜することに成功し、「ダイナモ作戦」全体を通してみるとイギリス空軍のドイツ機撃墜数はなんと 145 機にものぼったそうです。とはいえ、自軍も 156 機の戦力を失いました……。ちなみに、艦艇の対空攻撃により別途で 35 機の敵航空機も撃墜しています。

海上からフランス領土の爆撃を眺めるイギリス海兵たち

最も可能性のあるドイツ軍進軍停止の理由は、「勝利が確定してる状況でこれ以上不必要な犠牲を自軍に出さないため」かもしれません。実際、追い詰められたイギリス/フランス連合軍は最後の一人になるまで戦う勢いでした。そうなるよりも、国家元帥でありヒトラーの右腕でもあるヘルマン・ゲーリングは、「航空攻撃に切り替えた方がいい」と総統に進言。そしてヒトラーはその上申を大変魅力的に感じたのでした。
後に、ドイツ軍のハインツ・グデーリアンとエーリッヒ・フォン・マンシュタイン両将軍はこの「進軍/攻撃停止命令」を大きな過ちと評しています。フランス攻撃の中心となったA軍集団司令官のゲルト・フォン・ルントシュテットは「第二次世界大戦において、最も大きなターニングポイントの一つだ」と残しています。

ダンケルク大撤退 ― 撤退を浜辺で待つ連合軍の兵士たち

この優柔不断、煮え切らないとも言えるドイツ軍の動きは、連合軍を瞬間的に優位に立たせてしまいます。
5月27日。
駆逐艦 8 隻に護衛されたイギリスの軽巡洋艦カルカッタを筆頭に、その他 26 隻もの艦艇が撤退作戦を成功させるためにダンケルクの沿岸へと急行しました。しかし、ダンケルク沿岸は浅瀬が長く続く地形……故に、大きな艦艇は近づくことすらままならなかったのです。軍人たちは近隣にある大小の造船所等を片っ端からあたり、浜辺から艦艇まで人を移送できる大きさの小型船を調達しました。結果、なんとも言えぬ様相を呈した艦隊ができあがったのです。客船、タグボート、漁船、そして個人用ヨットまで、参加船舶の数も船種も多岐に渡りました。それでも、これらのほとんどが浅瀬に阻まれて十分近づくことはできなったといいます。

撤退の救援に向かう一般の船舶

そこから先は、兵士たちの頑張りに頼るしかありませんでした。彼らは数百メートルも自力で泳いで救助船に乗り込んだのです。とはいえそれは決して楽な道のりではありません。水位は首の高さまで達しており、溺死する危険性もはらんでいました。そのリスクを少しでも軽減するために様々な試みが行われました。その一つが、干潮を利用したものです。干潮時に車輌を海に向かって一列に並べ、満潮時に屋根が足場になるよう工夫したのです。
船をつけるはずだった港も爆撃でボロボロで、埠頭もすべて破壊し尽くされ、残っていたのは海岸線から1㎞も先で波に洗われる埠頭を支える支柱が2つのみでした。それほど、ドイツ軍の爆撃は苛烈なものでした。

船に乗り込む兵士たち

日に日に、作戦に参加する船舶の数は増えていきました。その最終的な数は、なんと 693隻。この中には先述した軽巡洋艦カルカッタ、駆逐艦39隻、掃海艇36隻、魚雷艇ら13隻、そして砲艦9隻も含まれます。大きい船舶に積まれている小型艇を除いた小さな船舶は311隻。フランスをはじめとする友軍からも168隻(内49隻は戦闘用)が作戦に参加しました。
撃沈時、船内部から逃げられずに最期を迎える恐怖から、ほとんど人々が船内には留まらず、甲板やデッキに居座り続け、その姿はまるで缶詰に押し込められたイワシのようだったと伝えられています。
救助船に近づいてくると、ほとんどの兵士は乗ってきた船を放棄したそうです。どんな理由であっても、誰も浜辺に戻りたくなかったのです。その為、浜辺に残っていた者は風が船を岸まで運んでくれるのを待つしかありませんでした。多くの装備品や兵器が浜辺に放棄されていたのは、想像に難くありません。それどころか、ほとんどの兵士が衣服以外のすべてを浜に残しました。個人所有物を含む物資も兵器も、ほとんど放棄されたのです。
そうして撤退の際にイギリス側が失った兵器類は、戦車455輌、80,000以上のその他車輌、2,500丁の銃器、68,000トンに及ぶ弾薬類、147,000トンに及ぶ燃料、そして377,000トンにも及ぶその他物資類……損失は非常に大きいと言わざるを得ませんでした。

 

ドイツ軍航空機に向かって発砲するイギリス軍兵士たち

救出を終えた船から順次、3つのルートを使ってイギリス諸島へと撤退を開始し、それぞれのルートはコードネームで、「X」「Y」「Z」と呼ばれていました。最短距離ルートは「Z」のルートで、たったの 72 ㎞で目的地へと到達できました。時間にして約2時間弱の航行。しかし海岸沿いを通るルートなので、「Z」を航行した艦艇はほとんどがドイツ軍の砲撃に晒されたのです。
「X」ルートは距離が「Z」よりはあったのですが、一番安全なルートでした(約 105 ㎞)。しかし浅瀬が入り乱れる海域や機雷区域もあったため、夜の航行は自殺行為以外のなにものでもなく、陽が昇っているうちに航行する以外選択肢はありません。
「Y」ルートは最長ルートで、約4時間の航行時間を要しました(約 161 ㎞)。機雷もなければ、陸からの砲撃もありません。しかし頻繁にドイツ軍の艦隊や航空機との戦闘があったといいます。
最終的には 861 隻の脱出艦艇の内、 243 隻が撃沈されました。これは、全体の約1/4以上の数です。

沈没するフランスの駆逐艦ブーラスク。甲板から飛び降りる兵士たちの姿が確認できる。

当初、ドイツ軍の侵攻停止は48時間しかもたないと予想されており、その間になんとか脱出を終えたい状況でした。ドイツ空軍による攻撃が継続される中、一日で45,000の兵士を救う目算は大きく外れることとなりましたが(一日目は7,500。二日目は18,000未満。合計で25,000人だけでしたが)、徐々に事態は好転し、5月29日には一日で47,000以上の撤退に成功。その後の二日では更に120,000もの兵士が撤退に成功したのです。

船に乗り込むイギリスの兵士たち

撤退の様子

5月31日。
ドイツ軍は侵略をしながら、包囲陣を形成。
6月1日。
更に約64,000の人々が撤退。
6月2日。
ダンケルクを防衛していたイギリスの後衛が撤退。撤退優先度リストの一番下にいたフランス軍のみが、母国に残りました。
6月3日。
日中の撤退行動を妨害するために、ドイツ空軍の爆撃が激化。その夜、約53,000の連合軍兵士が撤退に成功しましたが、翌日の6月4日、とうとうドイツ軍の本格的な侵攻が再開され、それを皮切りに作戦終了を余儀なくされたのです。約900人の兵士を乗せ、イギリス軍の最後の駆逐艦シカリが、フランス沿岸を03時40分に発ちました。撤退を援護するためにフランス軍2個師団が残りできる限り進撃を阻止しようとしましたが、これも最後には投降したそうです。

 

ダンケルクの浜辺に放棄されたイギリス軍の銃器

浜辺に取り残されたフランス兵のヘルメット

ダンケルクの浜辺に放棄された車輌たち

整頓された戦利品を調べるドイツ兵

「ダイナモ作戦」は結果として、遠征軍400,000人中、約360,000人もの兵士を救いました。もちろん、実際問題として兵器を含む、多くの物資を失ったので、イギリス軍としては大きな損失だったことでしょう。しかし、兵器はどうにかしてまた作れますが、訓練された兵士は簡単に作れるものではないのです。兵士は、国にとってかけがえのない存在です。宝とも言える兵士の大半を失わずに撤退できたのは大きな成功と言えるでしょう。
これはイギリス国民の士気に大きな影響を与えました。息子が、夫が、父が無事に帰国した……それに比べれば兵器類の損失は大したことはなかったのかもしれません。前述したように、物はまた作れますが人は簡単には作れないのです。
イギリスのメディアが敗北や撤退戦を嘘偽りなく報道したことによって、逆に国民の目にはこの作戦は奇跡の作戦に映りました。苦戦はしましたが、投降はしてません。失敗を取り返すチャンスはまたやってくる。多くの者は、そう捉えたのでした。
この出来事から、「Dunkirk Spirit (ダンケルク精神)」という言葉が生まれました。解釈は人によって様々ですが、我々は「困難に出遭った時、決して諦めない。皆一丸となって助け合う不屈の精神」と捉えています。これを読んでいるあなたにとって、「ダンケルク精神」とはどういう意味になるのか……一度考えてみるのはいかがでしょうか。

撤退に成功した兵士が無事家族のもとに帰れた瞬間

イギリス人は、この撤退作戦を「ダンケルクの奇跡」として心と記憶に刻んでいます。この特別な出来事を忘れない意味も込めて、「ダンケルクの旗」が作成されました。作戦に従事した一般船舶にのみ、掲げることを許された特別な旗です。それらの船舶は、現在では僅かしか現存しておらず、そのほとんどが「ダイナモ作戦」の追悼記念セレモニー等で実際に確認することができるそうです。

機会があれば、一度かの地を訪れ、船舶を眺めながら「ダンケルクの戦い」に想いを馳せるのもいいかもしれませんね。

ダンケルクの旗